杜(MORI)の 四季だより

杜の都、仙台に事務所を構える弁護士法人杜協同の弁護士たちが綴るリレーエッセイ

月天心

 9月はお月見の季節。芋名月や豆名月など子供の頃の楽しかったことが思い出されます。
仲秋の名月というのは、8月15日の月のことだそうですが、新暦では9月25日にあたるようです。さて、松島、観欄亭の月にも心惹かれますが(まだ見たことがない)、今回話題にするのは、

    月天心 貧しき町を 通りけり    蕪村

という句です。

 推理小説フアンなら誰でも知っているとおり、安楽椅子探偵ものの名作にケメルマンの「9マイルは遠すぎる」があります。二人の大学教授が食堂で朝食をとっている。入り口で二人連れの男の一人が、「9マイルもの道を歩くのは容易じゃない。まして雨の中となると」とつぶやいたのを小耳にはさんだ。どうやらこの男は夜通し歩いて今この町に着いたらしい。どこから?何の目的で?一つの文章からどれだけのことが推理できるか、教授たちの議論は続く。

 私には推理の才能などありませんが、上の句にはケメルマン流を真似てみたくなるような、推理心をくすぐる何かがあるように思えます。お粗末かもしれませんが、早速やってみましょう。

「この句は、蕪村がじっさい経験したことを詠んだものだろうか」

「たしかに蕪村には、伝奇的、物語的な句も多いが、そういう場合には句中に固有名詞を入れたり、前書きなどでわかるようにしている。この句は俳人その人の嘱目の句とみていいんじゃないかな」

「まずはっきりしているのは時刻だな」

「そう。月が天の心、つまり頭の真上に出ているというのだから、深夜12時頃だろうな」

「季節はどうだろう」

「月がよくて、風や雨がなく歩くのにも難儀しないとなると、やはり秋と行きたいね」

「旅の途中か、それとも自分の家からの往還か」

「旅だったらもっと早い時間に出発するだろうから、途中で真上に月がかかることはないだろう。作者は、あんまり月がよいので、月に誘われて(駕籠を呼ばずに)歩く気になったのではないだろうか」

「本によると、この句は明和5年の作とある。この頃には、蕪村も京都の郊外に寓居を構えていたはずだね」

「そう。だからこの句は京都の町はずれあたりの光景を詠んだものだろう」

「自分の家からとして、往きか帰りか」

「真夜中に出かけるのは異常だから、帰りと考えたいね。町なかで酒宴でもあったか、句会があったりして、その帰りといったところじゃないかな」

「でもそうすると、往きには貧しい町を通りながら、気がつかなかったことになる」

「それはいろいろに考えられるさ。往きには別の道を通ったかも知れない。あるいは、まだ明るいうちは人通りも多く、それなりににぎやかで、町の貧しさに目が行かなかったのかも知れない」

「いったい蕪村は、この町を初めて通ったのだろうか」

「そいつはわからない。自分の住んでいる家の近くにそういう町があることを知らないというのは、不自然かもしれない。ただ蕪村は、雄大な自然と卑小な人事の対比の妙を狙った句をたくさん作っているんだ(例えば、さみだれや 大河を前に 家二軒)。
 これも、皓々たる月の下に、貝のように押し黙って灯りも漏れてこない家々が続いていることに俳味を感じたのだろう。作者はこの町を知っていたかも知れないが、はじめて月の光のもとで見たときの感興を句にしたと考えればいいのじゃないか」

 やっぱりお粗末でした。どんと晴れ。

 (弁護士 阿部純二)