杜(MORI)の 四季だより

杜の都、仙台に事務所を構える弁護士法人杜協同の弁護士たちが綴るリレーエッセイ

畏友 近江恵一君を偲ぶ

 今日6月10日は、私の畏友近江恵一君の49日忌に当たる。

 今でも彼の死が信じられない。それだけ突然の別れであった。

 私達は昭和20年4月、太平洋戦争も末期、沖縄戦の最中に、一緒に県立石巻中学校に入学した仲間であった。

 中学に入ったものの、勉学どころではなく、先輩の3・4年生は勤労動員に駆り出されて軍需工場へ、私達1年生は援農ということで農家へ派遣されて農業の手伝いをさせられた。学校は軍隊の兵舎に接収され、設備・備品類は生徒1人1人が背負って稲井の小学校に疎開する作業に従事した。

 私は幸い、幼年学校受験組ということで特別授業を受けていたが、8月15日、幼年学校の身体検査の日に、終戦となった。

 それから6年間、旧制中学は新制高校となり、私達は同じ校舎で過ごしたが本当に何も無い時代であった。食べ物は勿論、辞書も、ノートも、鉛筆も、靴も無かった。そのなかで唯一の楽しみは近江君の家で経営していた東北館に彼の顔パスで入れて貰って映画をみること位であった。山城町にあった、当時は珍しい洋館風の近江君の家に行って、何度か食事にありついたこともあった。カメラを持っていたのは私の知る限り近江君位のものであった。

 そんな彼が、慶応大学経済部に進学し、交際は一時途絶えたが再び復活したのは約10年後、日活の支配人として仙台に来てからである。今、フォーラスになっている一番町広瀬通り角にあった日活に何回も訪れ、久しぶりに旧交を温めた。そして間もなく彼は表蔵王ゴルフクラブの支配人に招かれてからは交際は一段と親密になった。

 その彼が胆膿の検査のため東北公済病院に入院するといって私の事務所を訪れたのは2月20日であった。3日位で退院できるということであったが3月11日肝細胞がんらしいので大学病院で診療を受ける電話があった。3月31日PETの検査の結果、悪性なので4月2日に入院し、9日に手術を受けるということであった。それで手術前日の8日に東病棟850号室を訪れたところ、長女の美加さんがおられ、明日午前9時から手術で10時間位かかるそうだと元気に話していた。そしてこれが近江君との最後の別れになってしまった。

 手術の結果、出血が止まらず集中治療室に入ったまま、病室にも戻ることなく、4月23日彼は帰らぬ人となってしまった。4月27日行われた葬儀告別式では同級生を代表して渋谷善夫君が弔辞を読んでくれた。

 今はただ、「安らかに」と祈るだけである。

 (弁護士 阿部 長)