杜(MORI)の 四季だより

杜の都、仙台に事務所を構える弁護士法人杜協同の弁護士たちが綴るリレーエッセイ

70年そして50年

 今年は戦後70年になる。
 その70年前の昭和20年8月15日は、今年に劣らぬ暑い日であった。
 当時、私は旧制石巻中学校に入学したばかりの一年生で、8月15日は仙台陸軍幼年学校の受験のため石巻市桃生町の自宅で仙台に出かける準備をしていた。
 その頃、私の父は前年に予備役招集され、後で聞いたところでは硫黄島に逆上陸する陸軍部隊輸送のため、広島県宇品にある曉部隊に配属されたが、戦況悪化により作戦中止となり、終戦時は千葉県内の首都防衛部隊にいたという。
 私の一番上の兄は支那派遣軍の戦車部隊である滝兵団に所属し、終戦時は長砂作戦に従軍中であったという。
 次の兄は旧制仙台一中から海軍に入り、特攻部隊である回天搭乗員として8月15日は三陸沿岸に出撃、アメリカ機動部隊に突入寸前であったという。
 一方、現在の仙台市青葉区本町にあった家は満州国の機関が接収使用中で、その一部に当時仙台一中の3年に在学中であった私のすぐ上の兄が一人で住んでいた。昭和20年7月の仙台空襲で焼け出され、兄は文字通り着の身着のままで桃生町に辿りつき、石巻中学校に転校手続中であった。
 中学校に入学したものの、私らは授業は殆どなく、校舎の半分は陸軍部隊が兵舎として使用しており、3年生以上の生徒は勤労動員で多賀城や船岡にある軍需工場に駆り出されていた。
 4月に入学したばかりの私ら1年生は、学校の机や椅子、標本、図書類の疎開作業に従事した後、農作業手伝いのため農家に泊まり込みで働いていた。
 しかし陸士海兵など軍関係学校の受験生には特別授業があり、1年生も私を含む3名が幼年学校受験のため特別授業を受けていた。
 こうした中で8月15日を迎え、天皇陛下の玉音放送があったわけであるが、停電やラジオの雑音がひどく殆ど聞き取れなかった。
 しかしアナウンサーの解説で、どうやらポツダム宣言を受諾し、戦争は終わったらしいということは理解できたが、この後どうなるのか不明のまま、母と一緒に翌日仙台に出発した(列車の乗車券も軍発行の証明書がないと買えない時代であった)。
 仙台は一面の焼け野原であり、その街の中を歩いて試験場である陸軍病院(現在の国立病院機構仙台医療センターで、西多賀の仙台陸軍幼年学校は長野県に疎開中とのことであった)に行き受験した。
 そして「合否は追って通知する」と告げられたまま何の連絡もなく、又、出征していた父や兄たちも逐次全員復員してきて、我が家の戦中はこれで終わりとなった。
 戦争は終わったものの戦後の混乱は全くひどいもので、我が家も例外ではなかった。生きる為、父は急遽製粉製米場を始めたが、心労が重なり昭和23年に死亡してしまった。それまで父の仕事を手伝っていた私は、学校を辞め製粉製米業を継ぐことにした。
 しかし高校の担任の先生方や友人達が親身になって心配してくれ、授業料免除もあるし奨学金もあるとして、私は何とか高校を卒業し大学にも進学できたのである。
 大学では殆どアルバイトに明け暮れていたが、就職した後も何とか司法試験にも合格し昭和40年弁護士登録することができた。
 それから早くも50年が経過し、さる5月29日、東京パレスホテルで行われた日本弁護士連合会の定期総会で50年表彰を受け、事務所の同僚弁護士をはじめ多くの方々に祝って頂いた。全く有難いことである。
 省みると、私がこれまで何とかやってこれたのは、高校担任の武川先生をはじめ多くの方々からのご支援があればこそであり、感謝の言葉しかない。
 70年目の8月15日に当たり当時を想い出し一筆とする。
(弁護士 阿部 長)