杜(MORI)の 四季だより

杜の都、仙台に事務所を構える弁護士法人杜協同の弁護士たちが綴るリレーエッセイ

責任のとり方

「記憶にございません」
 昭和51年、戦後最大の疑獄事件といわれるロッキード事件において、田中角栄元総理大臣の刎頸の友といわれた小佐野賢治氏が国会における証人尋問において連発して有名になった言葉である。
 それが、今度は築地市場豊洲移転をめぐる東京都議会の100条委員会において元都首脳の口からとび出している。何とも情けない話しである。
 それにつけても想い出されるのは、岡田資(タスク)元陸軍中将のことである。
 岡田中将は太平洋戦争の末期、名古屋方面を爆撃し捕虜となった米空軍B29搭乗員を処刑した責任を問われ、昭和24年9月巣鴨プリズンにおいて刑死された。当時は日本陸軍の第一三方面軍司令官兼東海軍管区司令官であった同中将や前記B29搭乗員処刑に関連した旧軍人らに対するG.H.Qによる横浜軍事裁判(東海軍事件)を映画化したのが「明日への遺言」である。岡田中将は藤田まことが演じた。これは大岡昇平の長編小説「ながい旅」を原作に映画化されたものであるが、これが先日テレビで再放送された。見終わって涙が流れるのを禁じ得なかった。
 この裁判において岡田中将は、軍事裁判には正当性がないと争うと共にB29による日本本土に対する無差別爆撃は、軍事施設を目標としたものでなく、一般市民の殺傷を目的とした国際法に違反する行為であり、従ってB29搭乗員らは戦時捕虜に該当しない等と主張した。その上で同中将は、捕虜に対する処刑はすべて司令官である自分の命令によるものであって、部下達には一切責任は無いと強く主張したのであった。そして裁判の結果は岡田中将に対し絞首刑の判決が下されたが他の関係者はすべて禁固刑であった。
 戦後アジアの約50の各都市で捕虜虐待を理由とする所謂B級戦犯裁判が行われその数は約9000件といわれる。そして、その内死刑判決は何と1000人にも及んだという。単純な比較は出来ないものの、前記東海軍事件において死刑は最高司令官のみであったという事実は、法廷における岡田中将の見事な態度にその一因があったのは間違いないことと思われる。
 太平洋戦争において、米軍による東京を始め全国各地において無差別爆撃が行われ、一般市民が多数殺傷された。広島・長崎に対する原爆投下はその最たるものである。仙台も例外ではない。岡田中将らと同様捕虜とされたB29搭乗員に対する処刑に関する軍事裁判は名古屋以外でも行われ、これら関係者に対する裁判において司令官の外関係者から多くの死刑者が出ている。
 橋本忍の映画「私は貝になりたい」はその一例である。ポツダム宣言にもとづく極東国際軍事裁判は明らかに事後法であり、無効というべきものであるが、勝者による敗者に対する裁判として強行された。
 改めて戦争のない世界を希望すると共に現代指導者との対比を考えざるを得ないのである。
(弁護士 阿部 長)