ふるさと受難
石巻は、私が生まれ、育ち、そして高校3年まで、いわゆる青春時代を過ごした「ふるさと」である。
当然ながら今でも多くの知人、友人がおり、私の生家も石巻市桃生町に存在していた。
それが3月11日の大震災で全く変わってしまった。
地震と津波に襲われた太平洋沿岸の街は、全くの廃墟と化し、未だに電気もガスも無い場所もあるという。
生きて避難してもそこでの暮らしが何時まで続くのか判らない人もいる。
それでも生きているほうがまだ良いと思わなければならないだろう。
中学・高校の同級生本間五介君も今度の津波で亡くなった。
私たちは太平洋戦争末期の昭和20年4月中学校に入学し、間もなく終戦、学制改革で中学が高校となり、結局6年間同じ仲間と同じ学校に通った。
必然的に団結力も強く卒業後も定期的に同級会を開いていた。
その代表世話人が本間君であった。痛恨の極みである。
それらに比べれば大したことではないが私の桃生町の生家は大きく壊れてしまった。
この家は私の曽祖父が明治時代に気仙大工に依頼して、作った100年以上にもなる建物である。
父や祖父が議員や町の世話役をしていたこともあって、多くの人が出入りし、私も高校卒業まで兄弟たちと一緒に過ごした想いでの家であった。
その生家を樹木・敷石・土塀などと一緒に取り壊すのは断腸の思いである。
震災は過去にも世界各地にあった。18世紀半ば(1755年)リスボンを襲った大津波は人口25万人のうち3万人の命を奪ったという。
それでもポルトガル人は首府リスボンを再興した。
三陸沿岸には、慶長・安政から明治・昭和と何度も大津波があり、その都度対策を立て、復興してきた。
それに関わらず今度の大惨事である。
現場を見た人は異口同音に、原爆や空襲の後のようだという。
南三陸町の防災庁舎で高台への避難を呼びかけながら殉職した女性職員遠藤未希さんのような方もおられる。
亡くなった方々のご冥福を祈りつつ再興のために頑張りたい。
(弁護士 阿部 長)