杜(MORI)の 四季だより

杜の都、仙台に事務所を構える弁護士法人杜協同の弁護士たちが綴るリレーエッセイ

勅使河原先生を想う

 私が昭和40年弁護士登録以来現在まで、公私ともにお世話になった恩師勅使河原安夫先生は本年8月28日午前10時32分静かに天に召された。92才の誕生日である9月6日を目前に、安らかに、本当に安らかに亡くなられた。
 先生は、大正14年現在の仙台市青葉区二日町で涌井安兵衛氏とこしんさんの五男として生を受けられた。木町通尋常小学校から、宮城県立仙台第二中学校(現在の仙台二高)に進まれ、一年生の時兵庫県立神戸第三中学校に転校、神戸には先生のご長兄安太郎氏がおられ賀川豊彦を信奉する敬虔なクリスチャンであった。賀川豊彦は、大正・昭和を通じ、キリスト教伝道による社会運動家であり、生活協同組合の始まりである神戸灘販売組合の設立者の一人でもあった。その著書「死線を越えて」は豊彦の自叙伝と言われている。誰が買ったのか判らないが、私の家にもその本があり、小学生だった私がその本を読んでいるのを親に見つかり注意されたことを覚えている。
 勅使河原先生は、兄である安太郎さんを殊の外尊敬しておられた。神戸灘生協の代表役員等を務められた安太郎さんに私も一度か二度お会いしたことがあるが、品のある誠に立派な方であった。先生はご自分のことを無宗教と言われていたが、安太郎さんの影響を多分に受けておられた様である。後日、先生のご葬儀は、安太郎さんのご子息で日本基督教団兵庫協会の牧師である涌井徹さんの司式で行われたが、このことについて多分先生も納得されることであろうし、寧ろ喜んでおられるのではないかと思う。
 先生は、昭和59年と平成5年の2度にわたり仙台市長選挙に立候補されたが、これは多数の市民の方々からの熱い要望があったからなのは勿論であるが、世界の平和と人権を守ることを目的に活動された賀川豊彦や安太郎さんからの影響が先生の原点になっていたのではないかと思う。先生は、神戸三中から太平洋戦争開戦の直前である昭和15年に仙台陸軍幼年学校に進まれ、予科士官学校を経て、航空士官学校卒業直前の昭和20年8月終戦となり、仙台に復員された。しかし仙台も空襲により廃墟と化していたことから、先生の姉我妻まさ子さんの嫁ぎ先である遠刈田温泉で戦後の一時期を過ごされた。
 そして、偶々仙台に出た時友人に出会い、復員軍人のための講習会が母校である仙台二中で開かれると聞きこれに出席されたのが先生の人生における大きな転機となった。
 その講習会で先生は、阿部次郎先生を始め東北帝国大学の多くの教授方の話を聞くうち、特に林竹二先生の講義に心を打たれたことを私は何度か先生からお聞きしている。翌昭和21年4月、先生は東北大学法文学部に入学、同大学在学中の昭和23年9月高等文官試験司法科に合格、新しく出来た司法制度のもと司法修習3期生となり昭和26年4月弁護士登録、仙台弁護士会に入会して以来66年間法律業務の外各方面に於いて活躍された先生のご功績は誠に偉大であった。
 一方、先生は遠縁にあたる勅使河原家に入り、幹子さんと結婚された。勅使河原家は代々法律一家であり、幹子さんの曽祖父勅使河原健之助さんは朝鮮高等法院長を、祖父であり養父でもある勅使河原直三郎さんは大審院部長を、伯父村木達夫さんは仙台家裁の所長をそれぞれ務められているが、先生は弁護士として法律一家を立派に継承された。
 先生のご冥福を心よりお祈り致します。

(弁護士 阿部 長)