杜(MORI)の 四季だより

杜の都、仙台に事務所を構える弁護士法人杜協同の弁護士たちが綴るリレーエッセイ

命令

1 時が経つと色んなことが判ってくるものである。
 先日鴻上尚央氏作の「不死身の特攻兵」という本が出版された。「軍神は何故上官に反抗したのか」という副題をみて、私はすぐこれは佐々木伍長のことだと判った。かねて私は軍神となり乍ら生きて帰り何回か特攻を繰り返した佐々木伍長のことは知っており、戦後どうしているんだろうと多少気になっていたからである。
 鴻上氏の本によって、北海道石狩郡当別町出身の佐々木友次さんは2016年(平成28年)2月、札幌の病院で亡くなっていることを知った。享年92歳だったという。
 私は、かつて札幌にも当別町にも行ったことがあるのでひとしお感慨深いものがあった。

2 私が佐々木伍長の名を知ったのは昭和19年11月、小学校6年生の時である。
 昭和16年12月に始まった太平洋戦争は、当初連戦連勝であったが、昭和17年6月のミッドウェー海戦の頃から様子がおかしくなり、昭和18年に入ると南方方面ではソロモン、ギルバート、マーシャル諸島を島伝いに攻め上げる米軍の反攻が厳しくなり、更にはニューギニア島北岸からカロリン群島に至り、昭和19年6月にはマリアナ諸島のサイパン島にまで米軍が上陸するに至った。
 サイパン島は日本にとって絶対国防圏とされ、これを米軍に占領されればB29による日本本土の日帰り空襲が可能となることから絶対に死守すべき島とされていた。
 しかし圧倒的な米軍の火力の前に、昭和19年7月サイパン島は陥落。そしてマッカーサーのアイシャル・リターンを実行すべく、米軍は昭和19年10月レイテ島に上陸、以後昭和20年の終戦までルソン島を含むフィリピンの地上・海上及び近辺に於いて日米の最終決戦が行われることになる。

3 特攻隊はこうした戦時状況の下で生まれた。
 特攻作戦は出撃したら必ず死ぬものであったから、当初は志願に基づくとされた。しかし、陸軍でも海軍でも最初の特攻では相当の戦果を挙げることが求められたため、事実上は優秀な技術を有する者に対する強制に近い指名だった様である。
 最初の航空機による特攻は昭和19年10月25日、海軍の敷島隊5機によって行われた。海兵出身の指揮官関行男大尉は、サーマル島沖のアメリカの護衛空母セントローに体当たり、撃沈したとされている。しかし関大尉は出撃前、「爆撃には自信のある自分が何故1回だけの攻撃で死ななければならないのか」と怒っていたという。海軍に約3週間遅れて、陸軍の最初の特攻4機、万朶隊の攻撃は同年11月12日に行われ、全機レイテ湾の敵艦舶に突入。2階級特進の上軍神とされた。
 ところがその数日後の新聞で、万朶隊の一員、佐々木伍長がミンダナオ島に不時着、基地に戻り再度出撃したことが報じられた。

4 このことに、当時子供乍ら私は大いに驚いた。私だけでなく、殆どの人がそうだったと思う。特攻機は一度飛び立った以上、無事着陸することは出来ないと聞かされていたし、更には万朶隊全員が下士官で、指揮官となるべき将校の名が無かったからである。
 これは後日(勿論終戦後)判ったことであるが、万朶隊の士官数名は出撃直前、マニラの航空軍司令部の会合に出席後、基地に戻る輸送機がグラマンに攻撃されて全員戦死していたのである。
 又、その万朶隊の隊長岩木益臣大尉は特攻に反対であり、整備兵に命じて爆弾を機内から投下できるよう改造していたというのである。そして岩木大尉は部下に対しても「爆弾を敵艦に命中させて帰って来い」と話していたという。
 こういったことを全く知らなかった私は、佐々木伍長の名が新聞に出なくなり、終戦となったのであるが、今回の鴻上氏の著書により、その後の経過が明らかとなった。

5 佐々木さんが生きていることを知った鴻上氏は、2016年(平成28年)2月、アポも取らずに札幌の病院を訪ね、その後合計5回面会して色々お話を訪ったという。
 佐々木さんは眼が不自由になっていたそうだが、記憶はしっかりしていて、誠実に丁寧に質問に答えられたという。
 結局、佐々木さんは9回特攻に出撃し、その都度生還していたこと、最後は卑怯者となじられ、他の特攻生存者と共に福岡県におかれた第六航空軍の振武寮という施設に隔離されていたこと、その内部ではかなり厳しい指導・制裁があった様で、耐えきれずに自殺した者もいたという。
 これに対し、佐々木さんは「自分は死ななくともいいと思います。死ぬまで何度も行きます。そして爆弾を敵艦に命中させます」と答えたという。
 あの狂気とも云える戦時中の、しかも軍隊という最強の統治社会において、佐々木さんをそこまで強くしたものは何だったのか。驚嘆に堪えない。
 恐らく余りにも理不尽な命令に対する怒りではなかったろうか。
(弁護士 阿部 長)